かめの歩

のっそり ゆっくり 時々とまって ぼーっとして また歩こうかね。

瞑想をする時、ポーズやどんなイメージを持って行うのか、いろいろな形のものがありますね。

"無または空になる" "丹田で気のボールを廻す" "自分の呼吸に意識を向ける"等々。

しかし、なかなか無や空の境地には入れず、日頃の雑念がやっぱり頭の中をぐるぐる〜ぐるぐる〜。気が付けば何かの思いに囚われてしまっていた!なんてことが多くてぇー、ですよねー。

そんな時は、雑念を振り払うのではなく、その雑念を観察してみるのはどうでしょうか。

例えば、浮かんで来る事柄に対して「自分はこれがとても気になるんだなぁ」「自分はこの出来事に対して、とっても怒ってるんだねぇ。この事象の何に、どうして怒りを覚えてしまってるのかなぁ」など、自分の気になる事象と自分の反応を一度自分の身から引き剥がして見てみる。

人はどんな場面でも、自分を正当化したいものだそうです。犯罪者ですら、その犯罪をしなければならなかったと釈明するとか。そうした自分を擁護する言葉は脳の外に置いといて、事象に相対した自分の素の反応を観察してみます。そして瞑想時としての大事なポイントは、引き剥がして見た自分と事象をそのまま身の外に置いたままにしておくことです。事象と自分との関係に可否を付ける必要も無いし、反省も必要無し。ただ、自分はこれに対してこういう反応をした、それだけです。そういう反応に感情を付けることも避けます。

私たちは日頃、あらゆる出来事に対して反応して動きます。これは必要ですね。そして、更に反応して動く時に必ずと言って良いくらい感情も乗せています。実は、この付随している感情のせいで、苦しく辛くなっている作業も多いようです。

喜怒哀楽、人して生きるにあたり、大いに享受すべきだと思います!

しかし、時に自分を見失うほどに感情だけが膨れ上がり、感情に飲み込まれてしまっていることもありるかもしれません。

過剰に自己防衛したり、攻撃的になっていたり、悲劇的な感情に浸り過ぎたり。

無感情で事を成せ。と、言っているのでは無いので、その点は誤解されませんように。

ただ、事象と自分とを客観的に見てみる、だけです。そうして、何があるのか?変わるのか?それは分かりません。

が、どうしても頭から離れない何かがある時、お試しを。

瞑想は、心を身体を解放させる力も持っています。何かに囚われて苦しいなら、その原因の無い状態を感じてみましょう。自分を苦しめてまで、その原因となるものに拘る必要があるか?楽になった身体で考えてみたいところです。